2007年8月21日火曜日

翔ぶが如く

ここずっと忙しかったのですが、こまめなレンダリング待ちとか、飯食いながらとか、合間合間にずっと読んでました。そしてついに本日全巻読破。タイトルのような爽快感はむしろなく、ギリギリの線で食いしばる登場人物たちに、ひきつけられ続け、緊張感を感じながら読みきりました。そしてなんだか、自分の中に宿題をたくさん残されたような気分です。かと言って読むのが辛かったのではなく、むしろ、ひとり美味い日本酒を静かに味わうような背筋のはった心地よさを感じながら読み進められました。年をとったら、またしっかり向き合って読み直してみたいと思いました。

2007年8月19日日曜日

『トランスフォーマー』のたわむCGロボ

やっと映画館にいけるだけの時間が出来たので、『トランスフォーマー』をバルト9に観にいく。土曜ではあるが、午前の回のせいもあるのか、客席はまばら。例の如く、かなり前列に座る。
さて、『トランスフォーマー』とりあえずは退屈もせずに映像を楽しめた。この手の巨大ロボのCGもすっかり実写になじむようになったなあと思う。感心したのは動いたときの時折見せる各部の「たわみ」っぷり(?)である。CG巨大ロボ映像の従来ありがちな欠点として、ミニチュア的に見えてしまうという点がある。非常にうまく背景になじませても、動くとミニチュアっぽくなりがちなのだ。対して、古典とも言える気ぐるみ巨大ロボという手法、こちらのが動いたときの巨大感がリアルに感じたりする事が多い。それは各部の「たわみ」のおかげではないかと思っていた。日常において工事現場の大型工作機械を見ていると、一箇所一動作が起こるたびに、全体にそれの作用反作用の動きが発生し、主動作以外の動きが全体に波のようにしばらく尾を引く。これである。動作物が大きくなれば大きくなるほど、このたわみは大きく、そして時間軸上も残ることとなる。これの正確な用語はわからないので、とりあえずここでは「たわみ」とする。ロボではないが『ガメラ3』において、ガメラの着ぐるみの甲羅を構成している無数の小さな殻がそれぞれ別々に動くようにしてあり、ガメラが動くごとに複雑な作用反作用をおりなしていたのは、まさにこのたわみを表現として昇華していたと思う。従来のCGロボは、なかなかこの辺がいまひとつで、モーションキャプチャで動きをつけるぐらいなら、いっそ気ぐるみを着てしまって、そのパーツごとにモーションキャプチャしたほが良いのではないかと個人的に思っていたのだが、今回の『トランスフォーマー』のCGロボは果たして十分たわみを表現しえていた。いったい、CGの演算のみで表現したのか、あるいはモーションアニメーターのセンスなのか、あるいは僕がかんがえていたようなパーツのモーションキャプチャなのかはわからないが、よく出来ていたと思う。
ただ、たわみのような表現にこだわりすぎると、時間がゆっくり流れてしまい、戦闘がプロレス的動きになってしまいがちである。着ぐるみ怪獣対決ものの多くがそれが醍醐味になりつつも、それが限界になっている部分である。またしても平成ガメラを引き合いにだすなら、この対応策のひとつとして、画面アクションノイズ(と勝手に命名、主にカメラブレ、モーションブラー、蜃気楼、フォーカスのぼけ発生、これらと併用の爆発、突然のハレーション)の付加と共にカット割を多くしてリズムを細かくし、むしろたわみ表現が入り込めないようにし、アクション文体のみの簡潔さとリズムに絞り込む手法がとられていた(と、聞いたわけではないので、観ていて勝手にそう思った)。今回の『トランスフォーマー』もかなりこの手法がとられていて、と言うよりも、戦闘シーンではこの手法ばかりで、ずっとブレブレの手持ち風。言わば、戦闘シーンは観客の頭をつかんで終始ユサユサ揺すっているようなもので、ここまでやられると、観づらくなってくる。「もうちょっとしっかり見せてくれよ」と思ってしまうが、おかげで効果のアラは随分隠せてはいる。良くも悪くも、この辺のごまかし力技の圧倒的物量戦にもハリウッドパワーを感じたりもする。
と、映像も楽しめ、考察も色々できて楽しめたのだが、いわば表面的エネルギー活動観察に終始して、観終わって心に残るものがない。一応、色んな人種の人を出したりして文化の多様性を見せようとはしているのだけれど、どうにも侵略に対するこの手のハリウッド映画がもつアメリカ謳歌ののん気さは自らが現実に加害者たりえてきたその歴史に無頓着すぎる気がしてしまう。とはいえ、そんな事は、のんびり島国の観客席に座ったまま神聖な血統を気取りがちな日本人に言われたくない事かもしれないけどね。